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HOME > ユナイテッツについて > 陳立浩 マイストーリー

わたしが歩んで来た道のり。将来に続く道。
日本が学生運動で盛んなとき、華僑二世として神戸に生まれる。父は二十歳のときに中国本土から来日。母の両親も本土からの『老華僑』である。パイオニアといわれる人たちは、職業にかかわらず苦労人が多い。わたしの家庭は決して裕福でなかったので、父は昼も夜も働きづめで家にはいなかった。記憶の中に父と遊んだ思い出はなく、幼くもそれが自営業者の宿命だと肌で感じていた。母は、そんな父をひたむきに支え続け、私と兄を育ててくれた。自分が親の年齢になってはじめて、父と母の偉大さを知る。
中学を卒業して間もない十五歳の春。父に言われた。
「俺は日本に来て多くを学ばせてもらった。その恩返しをするためにこうして頑張っている。お前も俺と同じように、外の世界を見てこい。」
中学を卒業してからの八年間。もっとも多感な青春時代をアメリカ、ダウンタウンで過ごすことになる。アメリカがどんな国なのかも知らず。
英語に『自己責任』という言葉はない。
英語の"responsibility"には、日本語でいう自己責任の意味は当然のごとく含まれているからだ。自分の行動について責任を持つのは当たり前。子供でも大人でも、その重さは変わらない。渡米して両親と別れた、アメリカでのはじめての夜。近所のマクドナルドにハンバーガーを買いに行った。しかし何も買わずに手ぶらで店を出る。言葉が通じない。恥かしい気持ちと情けない気持ちだけが空腹感を満たす。自己責任とは、自分が頑張らなければ何も実現できない現実だ。ロサンゼルス・オリンピックの暑い夏。十五歳のわたしは思い知った。
アメリカに来て最初の一年は語学学校に通って会話と書き方を学んだ。翌年、アメリカ人に混じって高校を受験する。入学したのはアメリカ政府直轄の全寮制私立高校。全米各地にあるアメリカ陸海軍の予備士官学校だ。ここでは"discipline"(規律)と"moral"(倫理)を叩き込まれた。言葉の壁はあったが理解ある大人たちに助けられた。卒業してカリフォルニア州立大学に進学。日本に帰国。日本がバブル崩壊でうずき始めた頃のこと。
帰国してからのしばらくは、海外生活を苦労だと思っていた。しかし、家業を手伝い社会を知るにつれ、その苦労がたいした苦労ではなかったことに気付きはじめる。実社会では、自分ではどうしようもない状況が次々に起こることがよくある。誰を信用するべきか?ひとりで頭を抱え込むことも珍しくない。経営者は孤独なのだ。人を見る目の大切さ、プラスになれる人との付き合いを増やさなければ生き残れない。
日本の会社の9割以上を占める中小企業は、夢と希望を抱いて興されたはずなのに、いつの間にか浜辺の砂城と化し、不規則に押しよせる景気の波から身を守ることだけに専念するようになった。この国を真に支えているのは中小企業です。わたし達はもっと成長し、本来の夢を実現しなければ国の未来はありません。競争を勝ち抜く武器をもってください。わたしが武器となり最後まで応援します。
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